速度太郎の日記

ことばクリエイター(自称)の松本秀文が作品や雑文を掲載いたします。

飛ぶ劇場『ガギグゲゲ妖怪倍々禁』について(ネタバレ注意)

 12月4日に一年ぶりに北九州芸術劇場を訪れた。コロナ禍にあって、もう今年は演劇を見る機会がないのではないかと思っていた。まずは、このような状況下で素晴らしい舞台を創造していただいた飛ぶ劇場の皆様に謝意を表したい。

 この芝居を貫く大きなテーマは、2つある。まずは、この「コロナ」の現状。そして、その脅威の広がりと共に明るみに出る「民族」の問題。前者に至っては、今回は役者全員がマスクをつけて舞台に上がるというアイディアが抜群に効果を出した。また、後者にあっては、いわゆる「分断」の時代の中でLGBTや国籍などの多様な生き方を阻むものが国家ではなくまさに「我々」そのものの偏見であることが暴かれてゆく。

 舞台設定は、2030年。ちょうど今から10年後。新しいウイルスの流行が始まっており、妖怪たちに嫌疑がかかる。ただ、ここでの妖怪は我々が知る妖怪ではない。妖怪たちの子孫たちで、人間との交わりの中で血が薄くなっているという設定である。その妖怪たちがウイルス感染の原因であるかのように考える大衆の存在が描かれる。

 舞台上は主に転野(木村健二)のカフェバーを中心に描かれる。これは、「内」と「外」の構造を効果的に演出している。「内」とは、ここに来る常連はほとんどが妖怪の子孫であり、そのことを暗黙裡に了解している者たちで構成されている。昔で言えば、被差別部落のような形式を持ち、役者たちは明るい会話の中に時折「暗さ」をにじませてゆく。

 では、「外」とはどうなっているのだろうか。「外」と「内」を媒介するのは商店街の会長である荒井(葉山太司)である。荒井は、彼や彼女らが妖怪であることに気付くが、最初は見て見ぬふりをしようとする。しかし、「外」の世界では妖怪を排除しようとする動きが強まり、それに抵抗する抗議団体「CCK(おそらく鬼太郎のちゃんちゃんこに由来する)」との騒乱のようなものが始まり、自らの立場もあってカフェバーの営業にまで口出しするようになる。その態度の明らかな変化には、コロナ感染ルートでSNSで俎上に上げられた飲食店への攻撃や排除という我々の「現実」の構図が透けて見える。

 それは、日本人論と呼べるものかもしれない。野田秀樹の『赤鬼』に代表される自らと異なる「他者」を排除の対象とする陰鬱な日本人のアイデンティティーが荒井の人物造型の基礎になっている。また、彼がとりわけ敵視する雨宮(角友里絵)と式沢(徳岡希和)はCCKに所属しており、雨宮は雷を落とすなどの能力を持っている。式沢は普通の人間という設定だが立場は妖怪側である。「外」の状況が妖怪に寛容な間は問題なかったのだが、そこが排除へと傾斜した瞬間に荒井の言動と行動は大きく変化する。

 この妖怪酒場の中で特に際立った存在を示す温湯(桑島寿彦)はぬらりひょんの末裔である。彼が何度か発する「ぬらりひょんは何もしないんだよ」という言葉が後半部ではとても生きてくる。野田の「赤鬼」でも赤鬼は何もしなかった。鬼を迫害し、最後には殺害して食べたのは人間の方だった。温湯は、妖怪たちはもともとひっそりと暮らしていたが、水木しげるの影響(?)で妖怪が脚光を浴びてしまい、その存在を薄めるために血を薄くしていったと語る。妖怪の子孫たちは特別な能力はほとんどなく、人間の脅威ともなっていない。

 これは、特殊能力を持つ者と持たざる者の戦いを描いたテレビドラマ「SPEC」にもつながっているように思われる。「SPEC」の設定でも特殊能力を持つ者を国家が暗殺するなどの一面があり、それに対して特殊能力を持つ者たちが反撃するという構造を持っていた。そこでは、「シンプルプラン」と呼ばれるウイルスによって特殊能力者だけが死に至るという計画が出ていた。今回の劇では、逆に妖怪の血が濃い者だけがウイルスに抵抗できるという設定であり、最後は人間たちにそれを武器に反撃を仕掛けてゆく。

 こうして見ると人類VS妖怪の単純な話に陥りやすいが、泊氏の手腕がここで大いに発揮される。それは、妖怪血統の率を数字で表したことだ。20%以上の者は妖怪。それ未満は人間。そのような取り決めが国家の法案として決定される。今まで妖怪側だった芽木(佐藤恵美香)はこの「基準」によって「人間」になる。そして、数字で「妖怪」と認定される恋人(?)の風太っち(脇内圭介)や名倉(中川裕可里)と激しく議論する。これは、前回の『ハッピー、ラブリー、ポリティカル』で「多数決」という外部装置によって「正しさ」が揺らぐことの新たな見せ方でもあるように思われる。

 最終的にこの劇の最も重要なポイントが、荒井の妖怪血統が20%以上だったことである。つまり、彼は「妖怪」だったのである。また、人間として描かれていた式沢も3%の妖怪の血が流れていた。純粋な日本人などいない。それなのに何か自分たちを守る論理を作ろうとする「外」の人たち。やがて、荒井も完全に「内」に合流して、マイノリティがマジョリティに対して攻撃を始めてゆく。その開始が、SNS発信であるところもリアルに描写されている。不穏なまま劇は終わるのだが、この舞台が明らかにしたこの世界の「闇」に関して観客である我々は目を見開き、本質に対してしっかりと思考して行動することが求められるだろう。まさに、コロナ禍において最重要な舞台である。