哉
爺が「哉」と言うと
世界が消えてしまった
行方不明の世界のおじさんを探す旅
苦しくて
死にかけて
生き甲斐など存在しない
パラシュートで飛び降りた犬は
ここにはいない
「穴」が教えてくれたこと
すべては幻想で
身体は釘で打たれて痛むだけのもの
羊と珈琲を飲んで
明日の天気について語ること
収斂してゆく時間
その先へ
飛ぶ劇場『ハッピー、ラブリー、ポリティカル』について(ネタバレ注意)
11月22日、飛ぶ劇場の41回目の公演となる表題作の観劇に行った。場所は、北九州芸術劇場の小劇場。私は、小劇場の空間が昔から好きだ。近頃は、演劇は東京で見るか、北九州で見るかのどちらかになり、北九州で見るのはほとんど飛ぶ劇場の舞台である。今回も作・演出は泊篤志さん。さてさて、どんなお芝居になるのかと思っていたが、「やられた」というのが今回の感想の概要になる。次に、どのようになぜそのように思ったのかについて少し書いてみる。
このお話はまず何がテーマなのか。「幸福(ハッピー)」、「愛(ラブリー)」、「政治(ポリティカル)」。それらの中で一番ウェイトを置いているものは何か。いや、そもそも問題はそのどれでもないのだろうか。私の回答はこうである。これは、「正しさ」をめぐって繰り広げられる芝居である。そして、その「正しさ」は民主主義的なものでも「法」のそれでもない。一個人がどのように生きるのか。それがそのまま「正しさ」となる。
物語を要約すると、あるマンションに隣接する空き地に「児童養護施設」の建設の話が出る。マンションの管理組合で住民たちはやがて賛成と反対に分かれて、激しい議論を展開する。反対派の意見の中には、「児童養護施設」の子供と一緒の学校に自分の子供を通わせたくないというものがある。自分の子供が彼らにいじめを受けることもあるかもしれず、親としてはそうは絶対にしたくはない。仮にそうならないにしても、いいことは特にないのでもし建設がなされないのであればそれに越したことはないという意見である。
だが、そのようなことを発言した住民も自らの「正しさ」を疑い、それによって自らの人間性と向き合い、そして傷を負う。又山南波(内山ナオミ)という人物がそれだ。彼女は、夫と娘とマンションに住んでおり、建設可否をめぐる住民投票では部屋の間取りなどで票を加算するようなアイディアも出すなど、自らの「正しさ」を強めるために急激に精神のバランスを壊してしまう。それは、本当に娘のためなのか。いや、違うだろう。彼女は自らの「正しさ」の「沼」にはまってしまった一人である。
もう一人、同じように「正しさ」にのめり込んでゆく者がいる。林万理江(角友里絵)である。夫の盾男(木村健二)は妻の「正しさ」を否定するのだが、夫には同じマンションに住み反対派である塩田コミカ(佐藤恵美香)と昔の恋人を匂わせる節やマリファナなどを想起させる「草」の栽培を行うなど妻の考えを真っ向から否定できるような「正義」の人としては描かれていない。揺らぎの中の人物として描かれており、「正しさ」を相対化させるトリックスターとしても働いている。
万理江は、塩田が撒くビラ(施設の児童を犯罪予備軍(?)として建設反対を訴えるもの)に深く共感する。夫はそれはおかしいと反論するが、劇中で姿の見えない二人の子供の影が舞台上に伸びてゆくようにも思われた。共通の子供がいるのに家庭内でもそれぞれの「正しさ」によって分裂が起こる。賛成か反対かという単純な二元論ではなく、人物たちの過去やそれによって形成された「正しさ」が舞台上を埋め尽くしていく。
管理組合の会議の場面からそれぞれの住民たちの日常が出現し、同時進行で展開させる場面ではクラゲが水槽で漂っているようなミステリアスなイメージを想起する場面もあった。「正しいクラゲ」と「間違っているクラゲ」なんているのだろうか。クラゲはクラゲじゃないのか。ただ、水槽の中に自分たちを脅かすかもしれない要素が加わるとしたら、ただのクラゲたちが「正しさ」によって対立することもあるかもしれない。
私が「やられた」と思った場面は、南波の夫と娘の何気ない会話であった。その日常会話はどこの家庭でもあるものでわざわざ演劇の中で語られる必要もないものだが、「正しさ」をめぐる議論のエスカレートの中で、普通に生きている人たちの何気のない会話がとても美しく貴重に感じられた。また、北九州弁がすごく良かった。最後の会議には娘自身が出席して投票するというシーンがあり、このシーンではすべての参加者が自らの「正しさ」を疑い、対峙するようなラストへと突き進んでゆく。
又山家、塩田、万理江、そこに集う者たちがお互いに「ありがとうございました」と言い合う場面。この劇を観劇していた者もきっとこの言葉を舞台に投げかけたのではないだろうか。また、マンションの住民たちが「一つ屋根の下」で生きているという話をする場面。都会で一人暮らしをする僕にもグッときた。言い換えるならば、この地球そのものが巨大なマンションであり、あらゆる問題は自らの信じる「正しさ」を他者に押し付けることなく他者のそれに対しても寛容であり続けられるかどうかである。だから、これはマンションの話じゃなくて、きっと現代の日本だったり、世界だったりの話なのである。
今日もあなたの「正しさ」であなたではない人やあなた自身が傷ついているとしたら?
自覚がある人にはこの芝居が特効薬として最適であると思う。絶対的な「正しさ」などない。だから、今日もくだらない話をして、誰かとお酒でも飲んでおこう。
猫の他界
某月某日
猫が死んだ
死んだ猫は詩を書いていた
だから死んだのかもしれない
頭蓋骨から脳がはみ出して
全身は血のスープに浮かんでいる
都会が悪いのか
浮浪者が読み漁る古い詩集の色褪せた文字
もういないもういないもういない
いつの間に生まれていたのか
遠くでピストルが鳴る
世界は凍る
「一匹」という全体が月として街をこわす
復讐があふれ
公園では黒い布をかぶった猫たちがまるで
幽霊のように並んでいる
月から腕がのびて街は血の洪水となる
その時
いきものとしてお前は地面に立つ
友達の生首や親の肉片を踏みつけたとしても
辿らねばならない道があった
詩とは運命である
書きたくもないものを書かねばならない時
猫の死体は起き上がり
月光の中で
自らの遺言を読み上げるだろう
ただしく生きることができない
あらゆるいきものへの追悼として
惑星に落下する隕石が
地上をほろぼす束の間のいじわるな世界で
死んだ猫は素直に煙草を吸う
マンホールの上は少しだけつめたいからいやだ
ソナチネ
人が生きるのも死ぬのも自由だ
ふざけた顔をした魚の死体を見るために
太陽と海しかない場所で
一人相撲を仕掛けた
手にした銃はいつだって役立タズ
自分の出生の秘密が明かされる場所
あるいは空を焦がすほどの怒りが
諦念の行間ににじんでゆくのが見えるか
まいごたちの群れが青さに消えて
浜辺には血のような思い出が残った
夏は過酷すぎる
風だけは嘘をつかないと思っていた
正確に世界を表現するために女を抱く
その吐息を思い出す場所がここではなくても
もしも 明日があるなら
柩
自分には「生きた」という記憶がない
Jの中では「無」の根が伸び続ける
上空の交差点で信号が青に変わるのを待って
「さよなら」という言葉に吹かれている
どこまでも青い場所にいるあなたへ
明るい箱の中で未来の地図を広げてみる
猫が背伸びして笑う場面も挿入されて